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2009.02.23 石取り碁
古代碁のさらに後ろへ
【石取り碁】
囲碁
「琴棋書画」という言葉があります。
中国に今も残る(らしい)四つのたしなみで、琴楽器、囲碁、書道、絵画を指しています。
将棋の棋の字ですが、これで碁を指しているそうです。
私はあまり歴史や言語に明るくないのでこんな事を書くのは非常に恐縮なのですが、ひょっとすると「碁」という字は日本でできた文字なのではないかと思ってます。中国に碁の字は無いらしいのです。
どなたかお詳しい方いらしましたら助け舟を。

文化人のたしなみであり遊戯というより教養でもある碁ですから、私が我を忘れ碁に没頭していたとしても他のゲームに熱狂しているのよりかは幾分マシである、という思考をヤンファーからははっきりと感じる事ができます。
そういう意味においてですが、我が家では碁は最上位遊戯であり(象棋よりもはっきりと上に位置しています)、私が何時間囲碁ソフトで遊んでいても、関連本を読みふけっていてもまず怒られないという非常に稀有なゲームなのです。
ついでになりますが「ヤンファーに怒られないゲームスケール」を記しておきます。これはテストに出ますので良く覚えておいて下さい。

碁>象棋>トランプ>その他伝統ゲーム>ボードゲーム類>デジタルゲーム>オンラインゲーム>ギャンブル

以前ファ熊さんに誘われヤンファーが嬉々として遊んでいた花札が、実は一部で賭博用具として認知されている事等は当会のタブーですので併せて覚えおき下さいますようお願い致します。

さてさて、碁がそこまで権威あるゲームであるならもしや一緒に遊べるのではないか、とつい欲張ってしまうのが人情というもの。
実際に話を持ちかけると、「碁はちょっと覚えたいかも」レベルの微妙に前向きな返事が返ってきました。
しかし、世の中うまくいかないもので、碁というゲームは私が今まで遊んだ他のどのゲームと比べても飛びぬけて教えるのが難しい。
正確にはルールの9割は3分間で教える事ができるのですが、どのように進めてどのように終わるゲームなのか、どうすれば勝利条件に近づくかなどの説明が全くできません!
これは碁を他人に教えた経験がおありの方には概ね共感していただけるのではないかと思います。

まず基本的なルールは
■1 2人で遊ぶゲーム。双方白黒いずれかの石を持つ。
■2 手番には盤上縦横の線の交点に交互に1つずつ石を置く。黒が先番。尚、一度置いた石は相手に取られない限り動く事は無い。パスも可。
■3 相手の石の縦横(呼吸点)を全て自分の石で塞げばその石を取れる。2つ以上のつながった石も同様。
■4 着手禁止点について(割愛)
■5 コウのルール(割愛)
■6 地(陣地)を多く囲った方が勝ち。取った石は相手の地を埋めるのに使う。

ざっとこんな感じですよね。
プロ棋士が出している入門書でも大体こんな感じに書かれているのではないでしょうか。
もちろん他にも細かいルールが沢山ありますが、最初は知らなくてもほとんどゲームに支障はないと思います。
そんな事よりもっと大きな問題は終了条件がはっきりしない、という事なのです。
終了条件がわからないから初心者同士では遊べない、これが碁の最大の難点です。

それでも百歩譲って終了条件は片方のプレーヤーがわかっていれば一応ゲームというか稽古というかとりあえず遊べる、と考える事もできます。
次の問題は、どのように着手すべきかの指針が全く無いという点でしょうか。
十九路盤はおろか九路盤でさえ入門時には手に余る広さです。大海原に小石を投げ込む気分で着手する事になります。

よく目にするのが、碁の複雑さはその二元性に由縁するいうもので、つまりは「石を取る」という概念と「地を囲う」という概念の両立が理解に時間を要する難物なのである、という事です。
なるほど一理ありそうです。しかし私は思うのですよ。
そもそも「地」の概念が単体で難しいのではないですか、と。

「地を囲う」という概念を持つ為には最低でも二眼の活きを理解しなくてはなりません。
ルールを覚えたその日に二眼まで理解するってなかなか難しいのではないかと思います。
どうしても覚えたい、強くなりたいという熱意に溢れた方を別としてほとんどの人には不可能ではないでしょうか。
もちろん私もその一人でしたし、ヤンファーには二眼と二目の違いを何度説明したかわかりません。
掛け目の説明なんて夢のまた夢です。
第一、二眼を理解したところでそれを対局中に作れるかどうかというのはまた別の話ですしね。
どうにもこの「地」の概念をはっきりさせる事が入門時の最重要案件のように思えてなりません。

そもそも古代の人々は、「自分の石を盤上に相手より多く置く」事を目的としたゲームを楽しんでいました。
この古代の碁でも「石を取る」というルールは存在していましたが、「自分の石を多く置く」と「相手の石を減らす」の2つのルールは一元性のものであると言えます。
遊び込むうちに、古代人は相手が囲っているところに自分の石を置いた場合、その石が取り上げられるだけなのか、逆に相手の囲いを全て取り上げられるのかがわかるようになってきます。
当然置いても取られるとわかっているところには置くだけ無駄なので手をつけませんよね。
逆に相手が入ってこなくなった囲いの中は自分の石をどんどん置いていきます。
より多くの石を置いた方が勝ちだからです。
最後はお互い囲いの中の1交点を2箇所を残して盤上全てに石を敷き詰める事になります。
2ヶ所残すのは何故か。
勿論そのうちのひとつに石を置くと次の相手の手番でもうひとつの空き箇所に石を置かれ、全ての石を取られてしまうからです。

古代の人たちはこのゲームがオモシロくて仕方がないので延々遊び続けます。
それぞれ腕前が上がっていき、こうすると石が取れる、こうすると取られるなどという話も繰り広げられます。(一応断っておきますがこの辺のいかにも見てきたような話は私の妄想ですので。)
そのうちに誰かが気づくわけです。
「この石を敷き詰める作業って無駄じゃね?」
どうせ相手は入って来ないのだから、敷き詰める必要はなく、入って来ない囲いの中は一目一点として盤上の石ひとつと同価値にしたら良いじゃないのなるほどね、とこうしてルールが改変されます。
その後、切り賃だとか石は交互に置いているのだから数える必要がないんじゃないかとか色々出てきて今に至るわけですがそれはさておき。

古代の碁打ちと現代の入門者の最大の違いは、これ以上石を置いても無駄だという状況がわかるかわからないか、です。
極端な話、入門者同士で石を盤上にひとつでも多く置くゲームを九路盤で100回遊んでもらえば何も教えなくても二眼の活きを体得しているはずだと私は思います。早い人なら10回で済むかも。
ですが、盤上にひたすら石を置くのは面倒です。
なので石をどれだけ取れるか、というルールのみに着眼してみました。

仮に黒番が白石を3子取り、白番が黒石を2子取り、双方がパスをして終局すれば黒番1点の勝ち、というルールです。石の数も地の数も問題にしません。
碁をわかる方にはこれではゲームとして破綻しているとすぐにお気づきになると思います。
引き分けというゲーム解が出てしまっているからです。
しかし入門者同士で争えば絶対に引き分けにならず、どちらかの大石が死に、全滅するかさせるかという勝負が何局も続く事と思います。
そしていずれ古代人のように、「死なない石」を発見するわけです。自分自身の力で!
ゲームはプレーヤー双方が解を得るところで役目を終えます。
死なない石を作ると共に、ゲーム自体が破綻しているという事をプレーヤーに気づかせるのがこのゲームの唯一にして最大の目的です。
場合によっては石を取るのが抜群に上手いプレーヤーも出現するかもしれません。
読みの力も養えるかも。

おそらくこの方法は効率を求めあうゲーム「碁」の上達には全く適していません。
それどころか後々はっきりとした上達の弊害になって返ってくる可能性も少なからずあります。
しかし、入門時に10人中9人が脱落すると言われている碁を、楽しみながら、苦労をできるだけ少なく、できるだけ確実に覚えるにはこのレベルまで難易度を落とす必要があるのではないか、と常々感じている次第です。
入門レベルを突破し、欲が出てきたら上達に役立つ本を自分で探せば良いのです。
それよりもまずは打てるようになり、打つ楽しさを知らなければどうにも先へは進めないではないですか。

これはひとつの実験なのかも知れません。
被験者はヤンファーですが(^^;
いつか十九路で打ち合えるようになる日を夢見て今日も今日とて2人で石をキリあっております。
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